続・観音
統合のワーク、ユニティは魂と現在の意識との融合なのだけれど、最近はその手法で毎日魂に会いに行く瞑想をしている。メルキゼデクがいうので、深く入って行くそれをしている。
自分の疑問、問題点などをその場でイメージしていると、魂の光がこういった。
「あなたというものはないのです。」
私というものがない・・・。この「自分だ」という意識はないというのはどうゆうことだろう。
絶対的なものがないと基準がくずれそうな気がする。
自分という入れ物のなかの自分の意識は変化するからという意味?と聞いてみたが、
「宇宙中、どこにも『あなた』というものはありません。」
と再度いわれた。
魂は元々神の光、根源のかけらであるので、自分のものじゃない。
ところが現在生きている意識は私じゃない。
「わたし」という意識を宇宙によって持たされている。と考えることができるが、本人はなかなかそう思いにくい。
ただ、理屈はわからないが、私の全てが私のものじゃないと考えると、周りにいる私じゃない人も「私」とおなじなのだから、おなじように大切にしようと考えることができる。
そしてかわりなく「私」にも親切にすることができる。と考えやすくなる。
しかし、理解のわるい私は、理解しようとするため先人で誰か「自分はない」といった人がいないか、調べてみた。そして近しいものを見つけた。それは仏教の考えだった。
仏教で四宝印という根幹の考え方がある。これは、
諸行無常:この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
一切皆苦:一切は皆苦であると知ること
諸法無我:本来、我となる主体はない
涅槃寂静:一切のとらわれやこだわりを離れた姿
これらを実現するためにありのままを受け入れることが苦しみや悩みをなくす手段であるとし、その人間の心身の苦しみの原因はつきつめるところ12項目あるとして、それを12縁起というとのこと。
名称だけ書いてみるが、
無明(むみょう)
行(ぎょう)
識(しき)
名色(みょうしき)
六処(ろくしょ)
触(そく)
受(じゅ)
愛(あい)
取(しゅ)
有(う)
生(しょう)
老死(ろうし)
の12項目。
詳細がかかれたサイトはたくさんあるので、ここでは割愛するが、12項目のなかで私が気になったのが、『有(う)』である。
これは前に生じる『取(しゅ)』と関係が深いのだが、取は、好きなものを自分のものにしたいといういわゆる執着と、嫌いなものは遠ざけたいという感覚のことである。
それがすすむと物事に対する考え方は、人それぞれ判断が異なってくるようになる。
やがて「他人と自分を区別」をする意識を持つようになり、意識が、人と比べて幸せだとか苦しいだとか、感じるようになり、他人と意識の差で対立するようになり、争いが起きるとなる。
こんな風に差別する心が引き起こすことを「有」というらしい。
現実のところ、地球上で起こっている様々は戦争、紛争から家庭における暴力まで、このへんが原因になっていると考えられることができる。
「自分」を他の人と強烈に区別していると、考えが違うものを区別して、自分の考えにさせたいと欲し、抵抗され、憎いという苦しみが現れる。
これにつながっているのは、四法印のなかで「諸法無我(本来、我となる主体はない)」という考えじゃないか。
つまり魂がいったのは、私という存在がない という実体の否定じゃなかったのだなとわかった。
専門家がみたら、群盲象を評すで恥ずかしい解釈なのかもしれないと心配しつつも、備忘してしまう。
そんなこんなで調べていた昨日の今日。観音がでてきた。
ひらひらとはためくような羽衣のようなエネルギーを私にふりそそいでくれる。
自分とそれ以外のものとの調和といっていたが、この表現はあまりふさわしくない。
自分(あえて自分というが)をふくめた大きな自分を超えた世界との調和が、観音のエネルギーのようである。
重くどこまでものびていく羽衣のようなエネルギーをしばし感じて今朝の瞑想は終了。
自分の疑問、問題点などをその場でイメージしていると、魂の光がこういった。
「あなたというものはないのです。」
私というものがない・・・。この「自分だ」という意識はないというのはどうゆうことだろう。
絶対的なものがないと基準がくずれそうな気がする。
自分という入れ物のなかの自分の意識は変化するからという意味?と聞いてみたが、
「宇宙中、どこにも『あなた』というものはありません。」
と再度いわれた。
魂は元々神の光、根源のかけらであるので、自分のものじゃない。
ところが現在生きている意識は私じゃない。
「わたし」という意識を宇宙によって持たされている。と考えることができるが、本人はなかなかそう思いにくい。
ただ、理屈はわからないが、私の全てが私のものじゃないと考えると、周りにいる私じゃない人も「私」とおなじなのだから、おなじように大切にしようと考えることができる。
そしてかわりなく「私」にも親切にすることができる。と考えやすくなる。
しかし、理解のわるい私は、理解しようとするため先人で誰か「自分はない」といった人がいないか、調べてみた。そして近しいものを見つけた。それは仏教の考えだった。
仏教で四宝印という根幹の考え方がある。これは、
諸行無常:この世の中で常であるものはなにもなく絶えず変化している
一切皆苦:一切は皆苦であると知ること
諸法無我:本来、我となる主体はない
涅槃寂静:一切のとらわれやこだわりを離れた姿
これらを実現するためにありのままを受け入れることが苦しみや悩みをなくす手段であるとし、その人間の心身の苦しみの原因はつきつめるところ12項目あるとして、それを12縁起というとのこと。
名称だけ書いてみるが、
無明(むみょう)
行(ぎょう)
識(しき)
名色(みょうしき)
六処(ろくしょ)
触(そく)
受(じゅ)
愛(あい)
取(しゅ)
有(う)
生(しょう)
老死(ろうし)
の12項目。
詳細がかかれたサイトはたくさんあるので、ここでは割愛するが、12項目のなかで私が気になったのが、『有(う)』である。
これは前に生じる『取(しゅ)』と関係が深いのだが、取は、好きなものを自分のものにしたいといういわゆる執着と、嫌いなものは遠ざけたいという感覚のことである。
それがすすむと物事に対する考え方は、人それぞれ判断が異なってくるようになる。
やがて「他人と自分を区別」をする意識を持つようになり、意識が、人と比べて幸せだとか苦しいだとか、感じるようになり、他人と意識の差で対立するようになり、争いが起きるとなる。
こんな風に差別する心が引き起こすことを「有」というらしい。
現実のところ、地球上で起こっている様々は戦争、紛争から家庭における暴力まで、このへんが原因になっていると考えられることができる。
「自分」を他の人と強烈に区別していると、考えが違うものを区別して、自分の考えにさせたいと欲し、抵抗され、憎いという苦しみが現れる。
これにつながっているのは、四法印のなかで「諸法無我(本来、我となる主体はない)」という考えじゃないか。
つまり魂がいったのは、私という存在がない という実体の否定じゃなかったのだなとわかった。
専門家がみたら、群盲象を評すで恥ずかしい解釈なのかもしれないと心配しつつも、備忘してしまう。
そんなこんなで調べていた昨日の今日。観音がでてきた。
ひらひらとはためくような羽衣のようなエネルギーを私にふりそそいでくれる。
自分とそれ以外のものとの調和といっていたが、この表現はあまりふさわしくない。
自分(あえて自分というが)をふくめた大きな自分を超えた世界との調和が、観音のエネルギーのようである。
重くどこまでものびていく羽衣のようなエネルギーをしばし感じて今朝の瞑想は終了。
