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日野川 あさ

Author:日野川 あさ
奈良のエネルギーワーカーです。
主にネットでヒーリングやチャネリングの活動してます。

○伝授・ヒーリング等のサイト
”PRISMATICA”

○天然石とアクセサリーのショップ
プリズマティカのサイトに併合しました。

○アメブロの普段日記
”スジャータさんのメモ帳”

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それじゃあということで...

昨日の意味をもつ形、シリウスコードはレイキなどのシンボルも含まれるというのかと聞いてみるとメルキゼデクが出てきて説明してくれた。

シリウスグループというのがある。
あらゆる意味で近いグループ、たとえば人間Aさんという人がいたとして、彼にはソウルフレンド、ソウルファミリー、ソウルグループが存在するが、Aさんを地球とすれば、ソウルファミリーがシリウスファミリーのようなイメージであるとおもう。

シリウスコードはそのシリウスファミリーで使われている言語?か意味を持つなんらかのものだと思われる。
だったらレイキのシンボルはどうなのとなるが、これは光から直におりてきたものだから、またこのコードとは少し違うらしい。大きな枠ではシリウスコードと違わないかもしれないが、用途として今地球に広く知れ渡ってることとして違うんだとか。

ということは、地球にもシリウスファミリーのコードはあるのかときくとあるらしい。

そして驚いたことに個々の人間にもコードのようなものがそれぞれあって、いろんなエッセンスを受け取っているのだとか。
それはその人か魂なのか、大きな意味では魂なのだろうが、その人間が生まれたときから終えるまでの印みたいなのもあるのだろう。

コードを理解して、シリウスファミリーのアニキたちから人生豊かになるためのメッセージや贈り物をしっかり受け取っていきたいものだとおもう。



シリウスコード

今日の瞑想はシリウスコードについて。
真打お題は(というと昨日のミカエルに失礼だが)シリウスコードをアカシックレコードで知る。
アカシックレコードの場(以後レコードバンクという)に行くまえ、勘の悪い私にはわかりにくいだろうなと思いながら行ったら案外すぐに情報を出してくれた。

レコードバンクの一番外側部分、外周。ものでいうと壁の部分に窓のようなものがあってレコードバンクからの光を外に送っている。
これがシリウスコードなのだという。
最初はわからなかったのだけれど、つまりここでもシリウスコードが使われていて、どんな次元でもどんな方法でもアクセスできるように無数のシリウスコードをはっつけて、このレコードバンクにつながりやすくしているということだった。

アカシックレコードのアクセス方法はネットでもいろんな方法が公開されているし誰でもいけるとみんなが太鼓判を押すのもこんなものが施されているからなのかと納得した。

この窓のようなシリウスコードは「アナロジ」という形は
anaroji.jpg 

フリーハンドではこんな風にしか描けないが、実際はもっときちんとした形である。

これはレコードバンク用のコードではなく、どこにでも使われる。
この形自体に意味とエネルギーがあり、変化もしていく。
もしかしてこのコード自体も意識をもった高次の存在かとおもったが、それは違うらしい。

いくつかシリウスコードについて降りてきてて、そろそろここに備忘していきたいとおもう。

シリウスコードなんていうので、シリウスとの関係をしらなくてはならないのかと思ったのだけれど、宇宙の中での作用するその形としてはどうやらシリウスとの関係をしらなくてもよさそうだ。
また遠回りしてしまった・・・。

ミカエルの誕生

少し前から瞑想で得た情報、シリウスコードを一つずつ意味と形をメモにとっていっているのだが、結局のところこれはなんなのかどう宇宙に関わっているのかわからないままだ。
一体なんですのこりゃあ?と聞くといつも親切な自分の周りの存在か、瞑想時つながった高次の誰かが説明してくれるのだが、私の3次元の脳では理解できず、感覚によるキャッチしかできない。
よって3次元のツール、言葉では表すこともできない

アカシックレコードならシリウスコードのヒントがあるかもしれない。
今まであんまり興味がなく、つながりたいとも思っていなかったアカシックレコードだったのだが、今朝つながることにした。

つながるとき特に自分のことを知り得たいと思わなかったので、どの情報につながりたいかとおもってふと見ると先導してくれているミカエルと目があった。

おお、ミカエルがどうやって誕生したか知りたいぞ と思い、彼に許可を取ってアカシックレコードのエネルギーにつながる。エネルギーというか場というか。
そこはブラックホールのような渦のようなところで、黒いチリのようなものが一定方向にむかって飛んでいる。
はらってはいけないといわれる。それは記録の一部であるから。
その場でミカエルの誕生を見る。

自分自身がその誕生時のミカエルになっている。
巨大な影が光をのみこんだ瞬間だった。
私自身も(ミカエル)も飲み込まれるが、ある一種の激情に似た意志が働きその影をつきやぶった。
つきやぶりうねりながら光の頂点になって再び闇につきささり、光の仲間にもどる。
光の根源がそのつきやぶった光を認めた。

これがミカエルの誕生だった。
かっこいいねというと答えず、自分のもみたらというので、私に搭載されている魂が生まれる瞬間を見た。

私はそうした闇と光の攻防で飛び散った光の一つだった。
根源をはなれて魂という形の光をもった人たちのほとんどがきっとそうだとおもう。
飛び散ったときに私がもった意志が恐怖だった。
光のくせに恐怖を纏った。恐怖をまとわなかった光たちは闇に果敢に立ち向かい闇に飲み込まれたのもいる。
恐怖という経験を身に着けた光は散り散りに宇宙にちらばっていく。
経験は恐怖だけじゃないかもしれないが、私のは恐怖。
恐怖がなければ体をまとっても維持できない。
光の根源はそれを良しとし、散らばる自分自身を見つめている。

最初に体をもって生まれたところまで見て、今まで何度転生したかこれから何度転生するか知る。

アカシックレコードは誰に対しても開かれている。
エドガーケーシーのように今現在の自分のものにアクセスして、つまずいているところから抜け出すヒントを得るほうがいいのかもしれない。



自分の中の天使と悪魔

誰にでもある欲。
これがなくなると究極は肉体の維持に関わってくるので、上手につきあっていかないといけない。
その肉体を維持するための欲に最終的にはつながっているのだけれど、そこにつながるまでのいわゆるハブが多すぎて、関係がきわめて薄いものもある。多分これのことを煩悩というのだとおもう。

ところがこの対象物が魅力的すぎるのか、自分の抑制がきかなくなってしまう場合が人生では多々ある。
たとえで言えば、飲酒。
飲酒すると、量をセーブできない、人に暴力をふるってしまう、正気時はやめようと思っている。お酒を飲める状況になるとつい手が出てしまう。。。
というループの人がいるとする。

この場合でキーは、お酒を飲める状況で、自分の欲求とのたたかいである。
漫画でも見かけたりしませんか。自分の頭上に悪魔と天使が浮かんで言い争うという設定。

悪魔:いっちゃえー。おいしいもん 呑んでも暴力を振るわなければいいのさ!
天使:いけません。前にやめると自分で決めたでしょう。

お酒を飲むのが悪いのではなく、暴力をふるうのが悪いので、お酒をやめるという決定に説得力がなくなってしまうのだろうか。
お酒を飲んで意識のないときに暴力をふるってしまうので、この場合は飲酒=暴力をふるう とみなしてしまうよりないだろうから、お酒をやめると説得をしたほうがいい。

暴力=悪い について、
暴力を悪いと思わない人はいないだろうが、あえて説得力をもたせる理由を書く。
悪いのは人に迷惑をかけるからとか、だらしないとかいろいろ考えはあるだろうが、
一番なにがよくないかというと、しでかしてしまった自分を責めてしまうことだと私はおもう。
自分を信頼しなくなり低く評価して、自分のことを応援しなくなる。

自分の最大の味方は紛れもなく自分自身であるから、その自分から力をもらわないと、自信がなくなってしまう。
また、暴力は悪いことであるから、悪いことをする人間=自分 と自分の印象付ける。
自分=悪い人間となる。

お酒を飲んで、暴力をふるう ということをしてしまったときは、しまったやってしまった と思うとだろうけど、いい加減に気が付いてやめなさいよという上のメッセージでもあると思う。
悪いことだと気が付いてやり続けて、失敗するときこそ上の力が気づかせるためにやってくれてることなので、進歩なくループするのではなく、悪いやつでいいと自分の力を奪っていくのではなく、自分の中の悪魔と天使がそれぞれの言い分を言っているときに、天使のほうの言葉を深く掘り下げて、しばらく考えてみる時間をとるのがいいとおもう。

考えている間にすっごい欲求がエネルギーダウンするという効果もおまけでついてきたりする。





ドゥルガー続き

今朝の瞑想でもドゥルガーが出てきてくれた。
彼女がいうのは「変化」

変化というのは、3つあって、一つ目は自分の中での「変化」、二つ目は自分以外のものと関わることでの「変化」、三つ目は魂の成長、経験するうえでの「変化」である。

変化は常にあり、意識によって変化の幅が違う。
自分自身は常に変化しているということをいつも意識しているといいのだとか。

変化することが目的で魂は最初の光を離れたのだろうから、変化しないという道はそもそもないのだろうと思う。

変化するためにはいろんなものと戦うことになる。
ドゥルガーは変化のための戦いについてくれる頼もしい女神である。

二面

忘れやすい性質で、最近それがひどくなってきた。
そうゆう病気かと検索までしたくらいである。

先日もとても大切なことをするのを忘れてしまい、誰もいないところで、この忘れっぽい性格に呪いのような言葉を浴びせていた。
簡単にいうと、私のばかばかという感じ。
改善しようと何度心掛けても、失敗するのでどうしようもない。

そんな先日。
ドゥルガーが出てきてくれた。

ドゥルガーは、ヒンドゥー教の女神でシヴァ神の妃であるパールヴァティーの別の姿とされている。
外見は美しいが、戦いの女神で18本の腕にそれぞれ武器を持っている。
アスラ神族に天界を追い出されたディーバの神たちがシヴァやヴィシュヌに頼み、ドゥルガーが生まれた。
彼女は神々から武器をもらい、アスラ族と戦い勝利する。
ドゥルガーの怒りから生まれたのがカーリーであり、好戦的で、血を好んだ破壊や殺戮を喜ぶ女神である。


パールバティーの穏やかで優しい、美しい女神の違う一面であるドゥルガーは戦いと破壊が好きな美しい女神なのである。
彼女がでてきたのはなぜかわからず、最初自分のもろい部分をしっかりさせるために戦えとかいう意味かとおもったが、
そうではなく、人にはいろんな側面があるので、自分が困ったところだと思っている一面も理解してあげなさいよということだった。

短所にもただの短所ととびきり超級短所があり、前者は自分の中で消化できる短所、後者は到底理解できない自分自身の思考の範囲をこえたものがあるように思う。
思考をこえたものはどうやって落ち着かせるか。それは自分自身のまったく別な反面とまたなる。

ここらへんの話は、どこかで見たように思う。
違うかもしれないのだけれど、自分なりの解釈は

ドゥルガー(ただの短所)から生まれたカーリー(とびきり超級短所)が殺戮の後、陶酔して踊り始める。踊りに踊って世界が震えはじめる。(行き過ぎでやばいとおもうがとめられない状態
これはたいへんだということで、シヴァ(自分自身の違う側面)が行き、カーリーの下に横たわり(とびきり超級短所に深い愛をかけ)、彼女が正気にかえるまで踏まれて待つ(許す)。

シヴァのシャクティはパールバティであり、2人で対であるというこをを表している。
自分自身に起こっている到底承服できないようなことも、自分自身がなんとかするために別の一面というのがあるのかもしれない。
これは自分が勝手に考えたことだけれども。

ドゥルガーがいいたいのは、色々な側面をもっていて、自分自身好き嫌いでジャッジしているが、どの面も長所とその裏返しの短所をもっているので大切にしなさいよということなんだとおもう。


美のすすめのメッセージ

綺麗なそこのあなた、外の基準をさげていませんか。
あなたはこの程度でいいということですが、実際はそうではありません。
内なる美しさを肉体の外に出すために、体の表面も綺麗にします。
心の美しいあなた、外から見えるあなたも美しくしてください。

外見の手入れを怠る、またはこの程度でいいと思っていないか。
心と体を美しく保ちましょうというメッセージ。




文字のエネルギー

文字で人とコミュニケーションをとる手段はさまざまあって、最近ではSNSやラインなどと増えてきている。
その書き込まれた文字の意味や、文章の流れ、間合いなどで、理解するのであるけれど、こめられたエネルギーでもその人の感情の度合いなどが読み取れる。

込められているのだとおもっていたが、その文章は書きこんだ人の気持ちによってエネルギーが変化することを最近知った。
もちろん読んでいる自分の感情や心の状態も少なからず影響するが、文章はこめられたエネルギーだけではなく、今現在のその人の状態も反映していることがわかった。

友人からきたメールで、はらがたつとおもって放置しているのをもう一度みなおしてみると、あれこんな文章だったかなということがないだろうか。
自分の心が粗ぶっているときと、落ち着いているときとの差だけではなく、先方も心を落ち着けているのだということなんだろうとおもう。
乱暴な言葉がかかれていても、「こんなことかいて、今恥ずかしいとおもってるだろうなー」とか「言い過ぎだったとおもってるだろーなー」と相手のことを慮る気持ちが芽生えることがあるが、それは自分だけでなく相手にも変化があったからだと思う。

エネルギーは目に見えないものという理由で、雑な扱いや対応をされることが多いが、すべてのものについているエネルギーと、そのものを使った人から送り出されるエネルギーもあるので、気を付けていきたいとおもう。



今日の瞑想

ラジエルがお手伝いしてくれるワーク、Yワークを今日もしてみる。
今までの経験した出来事が長短関係なくざーっと渦巻いて通り過ぎていく。それはYの形ではなく、Xの形でもなく、鳴門海峡の大渦のように。
耐えられなくなって途中でやめてしまった。
するとふんわりと、夏の夜のちょうちんの光のようにやさしい光につつまれたブッダが見えた。

どうなりたいのですか。

幸せになりたいですと答える。

いろんな願望がある。それがかなうと幸せだといえるかといえば必ずしもそうではない。
願望が宇宙の真理に沿っているものであれば、必ずかなうが、そうであるかどうかはわからない場合もある。

気に入らない人がいて、あの人がいなくなればいい。というような願望だと、真理に沿っていないということは誰からもわかるが、例えば、かわいそうな子供たちを救済するために募金活動をし希望の額が集まらないというのは、なかなか分かりにくい。
募金→その子供たちが生活できる場を作る→子供たちの幸せ となるはずなのに、うまくいかない。
なぜだろう・・・・というように考えることが、人生なのだとおもう。

これが真理、これが真理ではない というのをわかるための時間が人生なのだとおもう。


何年か前まで、わかっている人にただなりたいと願っていたが、それは人生をかけて勉強していく目的そのものであった。
とんでもないことを願っていたなあと気が付くと恥ずかしい。
寛容な神は少しずつだけどその方向に近づけているのでこの願いは徐々にかなってきているともいえるのだろうけど。

大天使ラジエルの”Y”のワーク

オリジナルワークの一つにラジエル”Y"のワークというのをさせいていただいているのだが、
このエネルギーは、少し前に受け取ったものであり、必要な方に受けていただいたとおもう。

今朝の瞑想でラジエルにきてもらって、やってみたが、YではなくXになっていた。両手からそそぎこまれていたエネルギーが体の前と後ろからも送り込まれるような形だった。
そのエネルギーたるや相当な量で、でも気持ちよくって量はすごいけど激しいというより受け入れることができるとわかっている勢いで、癒された。

あまり時間がなかったので、エネルギーだけ受け取ったのだけれど、なにかいいたいことがあるのかもしれない。
それはまた次回。