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日野川 あさ

Author:日野川 あさ
奈良のエネルギーワーカーです。
主にネットでヒーリングやチャネリングの活動してます。

○伝授・ヒーリング等のサイト
”PRISMATICA”

○天然石とアクセサリーのショップ
プリズマティカのサイトに併合しました。

○アメブロの普段日記
”スジャータさんのメモ帳”

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感謝や愛について思うこと

先日、感謝について少し考えているふりなどして、書いてみたが、だれそれにやってもらったことを喜ぶというニュアンスがつよく、ちと混乱してしまう。
これも日本語のこの感情を表す言葉が貧弱だから、または私のボキャブラリーが貧相すぎるからなのだろうが、そんなこといってもどうしようもないので、自分の感じているところを書く。

自分に起因だとか、神のおかげとかそんな風に思うのではなく、いい状態が自然である。それを実感することが、この場合の感謝なのだとおもう。(従来通りの感謝の意味ももちろんあるが)

そして私は今、この感謝という意識を感情としたが、これは果たして感情であっているのだろうか。
この場合にはやっぱりあてはまらない。愛というのと同じで非常に紛らわしいものであると思う。

神の愛とか高次元の愛とかいうのは、人間同士が抱く恋愛、情愛の感情とは違う。
どちらかといえば、違う言葉で表現してもらいたいものだ・・などと天邪鬼な私などは思っているくらい。
恋愛の感情は、ものすごく悪い言葉でいえば、気に入ったものに対しての執着であるようにおもう。
でないと浮気発覚時の修羅場などは生まれないだろう。

本来、愛は、あらゆるポジティブなエネルギーを指して、、光の魔法のようなエネルギーだとおもう。
具体的に言えば、思いやり、包容力、育成、支えというようなエネルギーをはらんだものであるように感じる。
もちろん、男女や親子の愛情にもこういったものは含まれていることもあるだろう。
そういうのは、次元の高い恋愛で、それと違い、つきあっている相手が信頼できずに、やることにいつも気をかけているようなのは(いわゆる束縛)、恋愛と勘違いしている人もいるだろうが、それは単に執着しているだけにすぎない。

恋愛は特定の人を大事に思い、ほかとは違うと自分の中に意識ができてしまうので、こういった闇に陥りやすいのだ。

感情と体は結びついている。
体の状態を知るために、感情がある。
特定の人を恋愛の情で、大事に思い、子孫をつくり、愛憎によるいろんな思いを経験し、なにかやらかしてしまったりというような闇を感じるのもふくめて、体をもってうまれてきた人間が経験できる、そして泣いたり笑ったりというのを楽しむことができるというギフトなのだろう。

ギフトといえど、人は自分の使命があるならそれにそった道をすすみたいと本質的に思っているとおもう。
人間は感情や欲情などだけではなく、魂という家でいえば神棚のようなものがある。
その神に通じている自分の中の神棚の感覚に従えば、いい悪いはわかるとおもう。
本来の道からはずれた単に遠回りをしでかしてしまっても、必ず元の道に戻してもらうのだが、できるなら遠回りせずに、本来の道をなるべくとおっていきたい。
如何にギフトとはいえ、しんどいことはいやなのである・・・。

話が愛のほうにそれたが、感謝とは自分以外のものや人に寄せるありがたいというようなよろこびの気持ちのことではなく、いつも足りているという状態でいること安心であるようにおもう。

今日、瞑想で最近またよくでてくるガブリエルが、自分のいつもいる次元に連れて行ってくれてそこにいる自分のグループの天使長?セラフだとおもうが、その人にあわせてくれた。
なんか一生けんめいいってくれていたが、いつも言われていることだったので、理解しようとしなければだめなんだけど、「ああ、はいはい」という感じで深く考察しなかった。

このセラフの名前はセイキムというらしい。


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感謝とは

中学の受験が終わってから、入った学校でスキー部にはいった長女。
春や夏の間は筋トレやローラースケートでの練習がメインで、もともと運動が苦手な彼女は、先輩のしごきに堪えかねて勝手に1年生の秋で部活をやめてしまった。

勝手にやめてしまった友達がほかに2人いて、親に言えていない3人は部活の終わりそうな時刻まで繁華街でぶらぶらしながら、今日、親にいうか明日いうかと相談しながら、時間をつぶしていたらしい。
そのことが3か月後にわかり、勝手な行動をした長女を当然叱ったのだけれど、これも自分が選択した道。
苦手なことをやりつづけてトラウマになるのもどうかと思ったので、しばらく様子を見ていた。

人間は楽なほうに流れるようになっているのか、家にかえってから勉強するでもなく、だらだらとテレビの番組のことだけを考え、友達と携帯電話でやりとりをするというような生活を案の定おくりだした。
自分の理想だけど、中高生は健康的にスポーツやアルバイトで汗をながし、たくさん食べて精神と体を培う時期だとおもっている。
長女になにもそのとおりになれとは言わないが、あまりにも私の理想とかけはなれた生活で、せめて少しだけでもぴりっときいた何かを取り入れてなんとか運動させる手はないかと頭をひねった挙句、近所のどこでもいからスポーツをするところに、私と下の子、そして上の3名で入会し汗を流すという方法をとろうとおもいついた。

仕事おわってからのスポーツなんてしんどいだろうなと想像したが、ただヤレと指示するだけではいうことを聞いてくれないだろうと思い、多少無理しても自分も先頭たって見本をみせねばと考えたのだ。

さて、自宅周辺を見渡してあったのが、テニスクラブ。
自転車の距離で通える。テニスなんて高校の授業でしかやったことがなかったが、運動ならなんでもいいと思い、これにくらいついた。
そして、当時4歳と13歳、40代の親子が同時に受けれるプライベートレッスンはないかと門をたたいたのだ。

これがのちにとても無茶な注文だったことがわかるのだが、そのときは無知ゆえそんなことともつゆ知らず、とにかく頼み込み、なんとかお受けいただいた。
そして今から2年半年前からこの凸凹トリオでテニスを習い始めた。
ろくにボールもヒットできない園児に、テレビの心配ばかりする体力のない中学生、母だけが無駄にやる気をあふれさせている変な親子。

やり始めた当時は楽しく運動をしてくれたらそれでいいと思っていた。
長女は小さいときからなにを習わせても興味をしめさず、好きでもないものをやらされてかえって迷惑みたいな感じであった。バレエやスイミング、ピアノなんかもやってみたが、どれもすぐに大嫌いになり、続けたくないと言い出した。
がまんせずにやめてしまうことはよくない・・・。私は簡単にやめることを許さず、バレエなんかは2歳から9歳まで習わせたが、これがよくなかったようで、嫌いで嫌いで本当に大嫌いになってしまったのである。

そんな失敗があったので、テニスも嫌がったらすぐにやめてまた別なものをしようとおもっていた。
体を動かしている間は楽しくやってほしい。それだけを望んでいた。

このゆるい感じが、長女にはよかったようだった。
彼女が生まれてはじめて夢中になったものができた。
今は選手クラスにはいって週4回スクールにかよっている。そして口を開けばテニスの話ばかりしているテニス少女になっている。

そしてこのたび、プライベートレッスンは、2年半年で終了した。
コーチがいそがしくなってしまったのだ。私は週一の唯一の体を動かせる機会がこれによってなくなったのだけれど、もともとの目的はそんな自分の運動不足の解消などではなく、長女についてのことであり、このいたった結果に感謝している。

長女は夢中になれるものをついに見つけたのだ。
こんなうれしいことはない。そして私はいつものように上に感謝しまくった。望み通りになったよ~ありがとう~~~と。

ここで。
前置きが長くなったが、感謝とは一体何なのだろうという課題がふってきた。
私は今回のことでとても感謝していて、自分の望みどおりの素晴らしい流れにいたったことを、さすが神様とおもっているんだけれど、それだけでいいのだろうか。

今朝の瞑想で、そうきたのだ。
瞑想で、すごいヒーリングエネルギーがおりてきて、体いっぱいにその白い純粋で清らかな気がいっぱいになった。
私は、こんな結果にしてくれたことをとても感謝して、お礼をいったんだけど、それで、おわりなの?という言葉がきた。

終わりというのは、感謝がたりないよという意味などではもちろんなくて、
ただいい結論にいたったことをありがたく思うというそこどまりの感覚で終わらせるのではなく、もっと発展させましょう、もっと展開させましょうというニュアンスの言葉だったのだ。

確かに今までもありがとう~うれしい~とおもってそれは自分の感覚の中の満たされた思いを感じ入るというところまでだった。それ以上を研究していくでもなくそこどまりにしていた。

感謝の気持ちを発展させるとそれはどうなるんだろう。
私にはわからなかった。
人に伝える、みんなにも親切にする。思いつくのはどれも、一元的に水平展開させたもので、もっとこう、立体的な発展させやり方ではない。

感謝って一体なんでしょうね。
Yahoo!辞書でひいてみると感謝とは次の通りに説明されている。

<感謝>
[名](スル)ありがたいと思う気持ちを表すこと。また、その気持ち。「―の心」「深く―する」


なるほど、ありがたいとおもう気持ちか。ではありがたいとはなんなんだろう。こちらはコトバンクより、

あり‐がた・い【有(り)難い】
[形][文]ありがた・し[ク]《あることがむずかしい、の意から》

1 人の好意などに対して、めったにないことと感謝するさま。「―・い助言」「―・く頂戴する」

2 都合よく事が進んでうれしく思うさま。「―・いことに雨がやんだ」「社にとっては―・くない状況だ」

3 またとないくらい尊い。もったいない。「―・い仏様」「―・いお言葉」

4 存在しがたい。珍しい。めったにない。
「―・きもの、舅にほめらるる婿」〈枕・七五〉

5 むずかしい。困難だ。
「前車の轍(てつ)を見る事は誠に―・き習ひなりけむかし」〈神皇正統記・後醍醐〉

6 世に生きることがむずかしい。生活しにくい。
「世の中は―・く、むつかしげなるものかな」〈源・東屋〉


自分のおもっている感謝を説明してくれていないというのがよくわかる。
神は自分の好意などに感謝されることなどもちろん望んでないだろう。
人間がありがたい気持ちになり幸せになることを望んでいるに違いない。
とすれば、感謝に進化系もありそうだ。

一体感謝を超えたところになにがあるのだろう・・・、知ってみたいと思う。

怒りのおさめかた

先日受けたセミナーで件の収め方を伝授していただけたので備忘しておきたいとおもう。

怒りについての収め方。ここでいう怒りはいらいらするタイプのも含めることとする。
先生も怒りについてはずいぶん悩まれたそうであるが、この方法で改善されたとおっしゃっていた。

この方法は、人間はそもそも光から祝福され成長をサポートされている存在を知っているいうことが第一前提である。

怒りというものは底のほうから湧き上がってくる。
いきなり頭のほうから雷がおちてきたような状態で下っていくということはほとんどはないとおもう。

底からわきあがってきたのはおなかに来る。
おなかのチャクラでとどまるようにがまんすることを「腹に据える」という。
腹に据えかねる怒りは太陽神経叢を通り、ハートにくる。
ハートでおさめるようなことができる怒りは「胸に収める」という。

胸におさまらなかった爆発力のある怒りはのどを難なく通り過ぎ、「頭にくる」
そしてクラウンチャクラを突き抜け「怒髪天をつく」となるのだ。

しょっちゅう怒髪が天をつっついていると、腹や胸といったストッパーがきかなくなる。
そしてスピーディに怒りを感じた瞬間クラウンをつきやぶっているというありさまになる。

やはり、しょっちゅう髪を逆立てるように怒っていると苦しい。
しかも「なんであんなに怒っちゃったんだろう」とか怒ったことによる後遺症の時間も含めるとそのネガティブな感覚におちいってしまう時間は長い。
ということで、その収め方法である。

底にわきあがった瞬間のその怒りを観察するのだ。
イメージ化する。
赤黒いふくらんだ玉でもいいし、怒った自分自身の顔でもよい。
激しく燃える赤い炎でもいいようにおもう。
それをひたすら観察するのだ。

どんな色か膨れ具合はどんな感じか、そこから伝わるエネルギーをつぶさに観察する。

そうしているうちに、あら不思議、天から光がおりてきて、その赤黒く醜いふくらんだ怒りの玉は小さくなっていく。
まあ、おりてきた光なんか感じなくても観察していたら自然と小さくなっていく。
そもそも不調和のエネルギーなのであるから、よりよくなりたい幸せになりたいとおもっている人には不要のエネルギーである。
怒りのエネルギーを利用し、なんらかを成就させるという方法もきかれるが、そんなことすると自分がしんどいし、怒りのエネルギーなどに頼らずとも目的達成する穏やかな手段はほかにある。

成長を約束してくれている上の光が怒っている人間をつつみ、そして収束に導いてくれるというわけだ。

また、自分が怒ってしまうような環境に身をおかないようにするというのもこの方法を効果的に行う一助になる。
自分がしょっちゅう怒ってしまうような状況をできるだけ避け、ふとやってきたときはこの方法を実践することにする。

そうすれば腹に据えるや胸におさめなくても、怒らずにすみ、建設的に怒りを感じる要因に働きかけることができるだろう。

さあ!実践だ!!
(すでに何度か失敗しているが、牛歩の歩みも千里である。)

マッチョな彼との再会

最近の瞑想は、宇宙空間にトリップという感じが続いている。
ただ、遊泳しながらリラックスというのもあるが、どこそこにいってなにそれに出会ってなにやらお話をきいて、瞑想から覚めるとああ気持ちよかったけど、何を話したんだっけ というのがパターンだ。

今日はいつもみない古代ギリシャ風の少し髪が長めのマッチョな感じの男の人がでてきた。
なんかどこかで見たことがあるなと思いながら、彼のナビに従って私の大好きなアンドロメダ銀河まで。

アンドロメダでは中心の少し外側にエネルギーがたくさん集まっている。
その部分の少し右の外側に連れて行ってくれた。
その場に立つと、真正面からみた景色、横を向くとまた違う情景がみえる。
時間がたつとその情景もすぐ消え失せ別の景色が浮かぶ。
だからといって不愉快な感じではなく、すごく自然にその景色がでてきて、理性的に脳を理解させようとすると混乱するだろうが、感覚として受け止めればとても自然なかんじである。

紙芝居のようにかわるその景色をしばらく眺めていたが、この寄り添ってくれている守護の人はいったいだれだったかなとそれが気になってきた。
彼は時間がたってもその景色のように消えない。私をみてにこにこしている。


あの、どちらさんでしたっけ・・・。


名前はユリウスだという。
羽があるのになんとかエルじゃないのね・・・と思っていると、蘇ってきた。
そうだ・・・、何年か前に受けたドロレス式ヒプノででたガイドとおもってた男の人だ。

そういえば、初めてうけたヒプノセラピーでもでてきた女性がユリアウみたいな名前だった。
過去生に興味が傾くとでてくるひとたちなのかな。

・・・と思いだすと同時に、先日みたアルクトゥルスのピラミッドのような形のなんかがまた出てきた。
巨大な白馬もそばにいる。

なんか思い出させてくれようとしてるのはわかるのだけれど、ピンと来ないのが残念なかんじの私・・・。







現代レイキセミナーに行ってきた

アメブロでもうれしげに書いたが、先週末に現代レイキセミナーに行ってきた。
レイキの基本的な考え方は西洋も現代もかわらないが、アプローチ方法がやはり違っていて、あらためて自分は西洋式向きなんだなとうっすら自覚した。

現代レイキセミナーは2日間だったのだが、2日目はマスターシンボルの伝授とマスター(ティーチャー)用のアチューンメントの内容となっている。
わたしときたら、その2日目のマスターシンボルの解説のところでほとんど眠りこけてしまって、たぶんセミナーの内容の80%くらいは聞けていなかったとおもう。
眠るというか、ぼーっとなってしまうのだ。

土居先生を見ていると、後ろになにかおりてきててそれが先生を動かしているように見える。
だれがおりてるんだろうと思ってみようとすると、意識がぼ~っとなってくるという感じの繰り返しだった。

と、ただの睡眠不足をスピリチュアルな意味を持たせるような含みでごまかすなよーと自分の顕在意識が茶々を入れてきたけれど、ほんとに誰かおりてきてたんです!と言い切ることにする・・・。

現代レイキの素晴らしいところは、レイキがどうやって起こってきたか、というところを詳しく説明してくれるところ。
レイキってなんだろうという人は、この辺から知るととても入りやすいようにおもう。

今やっている自分のメニューのなかにどうやって取り入れるか構成を考えるところからになる。
土居先生もおっしゃっていて、笑い話にされていたのだけれど、真理からはずれないようなメニューにしないとだなとおもう。

したいことたくさん

太陽の光を浴びながら、何次元まで太陽は上昇するのだろうと考えていると、サナンダがやってきた。
なにか立ち止まっているときに、このヒトは出てくるのだけれど、最近言われ続けている言葉で、

「あなたはなにがしたいのですか?」

今日もまた言われてしまった。
昨日おとといと宇宙づいているときには、出てこなかったけど、今日は一段落したのか、顔面からざーーっと近づいてきて、
私のすぐ近くまで押し寄せてきて、笑顔でそういう。

ここのところずっと言われ続けているので、少し真面目に考えてみた。
前までクリヤヨガをあきらめなかったからこれを言われ続けていたのかと思っていたのだけれど、あきらめたというのにまだいわれる。
これはもっと別な不調和を誘うようなことを私がやらかしているからに違いない。

私は何がやりたいのだろう。
自分が幸せになって、周りが幸せになって、世界中が幸せになって、地球上で全てみんなが満たされて幸せでいる。
それは理想だけれど、私のやりたいことだろうか。
私自身の潜在意識をふくむ意識は何を望んでいるのだろうか。

でも。
話は実はそんなに大きな理想めいたところのことではないのかもしれない。

今、自分がやりたいことをたくさんやらせてもらっているけど、もっともっとやりたいことがある。
例えば読みたい本もあるし、チャレンジしたいこともあるのだけれど、鳥たちが食い散らかしたジューンベリーのそうじもしたいし、こわれかかった棚の扉の修理もしたい。

これから始めたいことと、やらないといけないことにわけてみるとして、

読みたい本とかは始めたいことになる。
やらないといけないことは、修理や掃除。

今の自分の状況を比喩してみると、メンテナンスできていない車で方々を旅行したいといっているようなものだと思う。
扉ががたついていて、タイヤの空気もぬけていて、アクセルパッドのゴムがとれて、金属の部分をふみながら走っているようなものだ。
こういったことをやらないと、本当に行きたいところに行く前に、車はとまってしまうだろう。
そして、再び動くまで長い時間を要することとなり、本当に行きたいところはいつ行けるんだろうということになる。

本当にやりたいことするためには、それを実現させる道具のメンテは必要である。

そういえば何年か前の年の目標にしたこともある、余分なことはしない、本当にやりたいことを選ぶとかなんとか。
結局できていなかったやりたいことの選別。

つまりサナンダの言う「なにがしたいのですか?」はこのことなのかもしれない・・・。

明日は現代レイキティーチャーのセミナーが土日連続である。
これが終わったらしばらくやりかけのことの「結び」やしなければならないことを一つ一つ片づけていこう。。。


って今日は特に自分の整理についてばかりで、スピリチュアルなメモじゃなくなってるこの日記・・・(^_^;;


アルクトゥルスの馬

先日のエンジェルレイキティーチャーコースを受けて以来、星の働きかけるエネルギーを感じるほうに私の意識が傾いているのか今日はアルクトゥルスのやさしいエネルギーがおりてきた。

アルクトゥルスのまわりには、いろんな次元のなにかが周回していて、たくさん周りにエネルギー体があつまっている。
ここといえば巨大な馬が印象的なのだが、やっぱり恐竜サイズの白い馬がやってきて、私のそばにしばらくたたずんでいた。

結びを知っていますか。

始まることがあれば終わりも必要という意味ではないようだ。
はじまりと終わりのエネルギーを調和させるという意味なのだそうだ。

ずっと前の瞑想でも、感じたことで
やりっぱなしというのが、地球では多くみられて、そこで起こる不調和にいつ気が付くんだとやられてたが、
物事どうしを組み合わせる意味の調和ではなく、地球ではどうしても時間の制約を感じてやろうとおもってもしにくいと
思うんだけど、始めるときにはそれが実現し活性化してなじむ、あるいはそのものの性格にもよるけれど、実現したのち、役目を終えて空にもどす、というところにも手をかける、気持ちをかけるのが調和だということなのだろう。

無とは満ち足りていること
調和していることだから、なにかはじまるということは終わりを目指しているということになる。
人に当てはめると、生まれたときにはすでに死を目指すということになるが、死とは肉体の消滅をふつうイメージしてしまうが、、(その生きてきた自分が)満ち足りた状態になるという意味だとスピリチュアルの世界では理解したほうがよさそうである。

私はこのあと、円錐形の海の上に浮かんでいるようなピラミッドのようなところにはいった。
恐竜のような馬は、これは神殿だという。
なかには、青い光をもった人間くらいのサイズの石のようなこれも円錐形よりもすこしごつごつして細長いオブジェのようなものがあった。

これが何を意味しているのか私にはわからなかった。




やめると決めたこと

スピリチュアルの世界に足をつっこんでしばらくたったころに、読んだヨガナンダの本『あるヨギの自叙伝』がある。
その本に感銘をうけた私は、巻末に書いてあった彼が設立したというセルフリアリゼーションフェローシップ(srf)でぜひ、クリヤヨガのレッスンを受けたいと思い、そちらの会員になった。

会員になってから、熱心に毎日呼吸法や行法や体操を行っていて、がんばっていたのだが、なかなかこないイニシエーションへの招待状にしびれを切らし、そしてチャネリングをやっている人はクリヤヨガは伝授されないという協会の決まりも知っていたので、いつのまにかやめてしまっていた。

ところが先日、ひょこっとイニシエーションの招待状が届いたのである。
私がかつて待ちわびて待ちわびてもうどうしようもなかった招待状が!
招待状には、簡単なアンケートと申し込み書がはいっていた。
それらを送ると、アメリカから電話がかかってきて、簡単なインタビューのあと許可をもらえるようだ。

11月に東京でイニシエーションがある。私は全く体操も行法もやっていない。
私は感激した。もうこれは2泊だろうが3泊だろうが絶対いく!!と思った。
そこであわてて先日また体操やらを開始したのだが、ふとふっと自分の中に迷いが浮かんできた。


チャネリングやっている人はsrfの会員にはなれない。本来私は受ける資格はない。


クリヤヨガなるものを経験したい!これだけ待っていてやっと届いたのに!!


申込書を送ってから8月からクリヤヨガ伝授の11月までチャネリング活動を控えたらいいんじゃないか。


あれこれ自分をだまし、理屈をつけてクリヤヨガをうけてみようかと思ったが、、、
一時的にやめていたとしても、私は今までやってきたスピリチュアルの成長させるための方法を放棄するつもりがない。
ということは、やめていないと同じことである。
そうゆう人はクリヤヨガを受ける資格がない。

何か月間か迷った挙句、クリヤヨガは永遠にあきらめることにした。
どちみち屁理屈をつけても神につながるツールであるクリヤヨガのこと、私には伝授されないだろう。

先生が私にいった。
つじつまの合わないことをしていると、すぐに反応がでますよ。
うんうん、確かにその通り。
違うなと思うことをしていると、それをまともな方向に是正しようとするような力が来て、苦しくなるようなことが起こると思う。


最近よく下の子と夜の散歩にでている。
覚えたての自転車によたよたしながら乗っている子供の背中に街灯に光がおりている。

今、アルクトゥルスはちょうど天頂付近。ベガとスピカもよく見える。
火星と土星がやっぱり目立つけれど、アルクトゥルスは今とてもきれいに瞬いている。


オリオンの人

久しぶりの瞑想を日記に書く。
今日ははじめるとすぐにオリオンの人がやってきた。
白い長い髪で細長い印象の女性だ。エネルギーは少し細くてきつい感じがする。

オリオンについて、実は2,3日前に別の星の存在からいろいろ教えてもらったことがあったので、それもあわせて備忘しておきたい。
右側のほうの星付近にオリオンの始まった頃からの文明というか組織みたいなのがあって、まだ若干誰かいるらしい。
ところが最初のそのエネルギーとは違うものになっていて、ほとんどのオリオンの人たちは別の星に転生または移住しているようだ。

オリオン人は美と調和を愛し、独自のユニークなものを作り出すのを得意としている。
地球にも多くやってきていて長年いろいろお手伝いをしてくれていたが、そろそろ引き上げる時期だそうだ。
つまりこれからは地球はオリオンの意識よりもより愛とか慈しみのエネルギーが必要としているようで、(たとえばアルクトゥルスとかベガとか)そういった方面が得意な星からの存在が多くやってくる予定になっているらしい。

引き上げたオリオン人たちは、オリオンの計画のためにまた徐々に集まるのだとか。


オリオン星雲(Nasaのサイトより)
ここにはオリオンの文化はないらしい。

それで、あなたは今はどちらのおすまいなの?と尋ねると、今はこと座のリングのあたりからという。


こと座M57(Nasaのサイトより)

こと座のリングというとこれしか思いうかばないが、、、
こんなところにエネルギー体がいるのか。。。

しかし確かに、このリングにはいろんなものを誕生させるというパワーも感じる。

彼女にオリオンにいたころのその存在の記憶をみせてもらった。
いろんなところに空間の切れ目があって、即座にとべるようになっている。
海のようなところにいるとおもえば、すぐに夜の神殿のようなところに飛んだり、ぼわ~~っとしたなにやらわけのわからない空間に飛んだりといった感じだ。
美しくはあるが、きつく、かつ若干重いエネルギーである。

今いろんな意味で転換期である。
地球だけが転換期ではなく、ルービックキューブのようにひとつの面がうごけばほかも動く。

それは星レベルのことだけでなく、自分自身という宇宙が動くのも同じことで、
ひとつひとつ自分の身の回り、どんなちっぽけなことでも、愛をかけて、
今までこうだったからという習慣も、そのまますすめず、違和感を感じたらとまって、愛ある方向に見直したりしていきたいとおもう。

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