先日、感謝について少し考えているふりなどして、書いてみたが、だれそれにやってもらったことを喜ぶというニュアンスがつよく、ちと混乱してしまう。
これも日本語のこの感情を表す言葉が貧弱だから、または私のボキャブラリーが貧相すぎるからなのだろうが、そんなこといってもどうしようもないので、自分の感じているところを書く。
自分に起因だとか、神のおかげとかそんな風に思うのではなく、いい状態が自然である。それを実感することが、この場合の感謝なのだとおもう。(従来通りの感謝の意味ももちろんあるが)
そして私は今、この感謝という意識を感情としたが、これは果たして感情であっているのだろうか。
この場合にはやっぱりあてはまらない。愛というのと同じで非常に紛らわしいものであると思う。
神の愛とか高次元の愛とかいうのは、人間同士が抱く恋愛、情愛の感情とは違う。
どちらかといえば、違う言葉で表現してもらいたいものだ・・などと天邪鬼な私などは思っているくらい。
恋愛の感情は、ものすごく悪い言葉でいえば、気に入ったものに対しての執着であるようにおもう。
でないと浮気発覚時の修羅場などは生まれないだろう。
本来、愛は、あらゆるポジティブなエネルギーを指して、、光の魔法のようなエネルギーだとおもう。
具体的に言えば、思いやり、包容力、育成、支えというようなエネルギーをはらんだものであるように感じる。
もちろん、男女や親子の愛情にもこういったものは含まれていることもあるだろう。
そういうのは、次元の高い恋愛で、それと違い、つきあっている相手が信頼できずに、やることにいつも気をかけているようなのは(いわゆる束縛)、恋愛と勘違いしている人もいるだろうが、それは単に執着しているだけにすぎない。
恋愛は特定の人を大事に思い、ほかとは違うと自分の中に意識ができてしまうので、こういった闇に陥りやすいのだ。
感情と体は結びついている。
体の状態を知るために、感情がある。
特定の人を恋愛の情で、大事に思い、子孫をつくり、愛憎によるいろんな思いを経験し、なにかやらかしてしまったりというような闇を感じるのもふくめて、体をもってうまれてきた人間が経験できる、そして泣いたり笑ったりというのを楽しむことができるというギフトなのだろう。
ギフトといえど、人は自分の使命があるならそれにそった道をすすみたいと本質的に思っているとおもう。
人間は感情や欲情などだけではなく、魂という家でいえば神棚のようなものがある。
その神に通じている自分の中の神棚の感覚に従えば、いい悪いはわかるとおもう。
本来の道からはずれた単に遠回りをしでかしてしまっても、必ず元の道に戻してもらうのだが、できるなら遠回りせずに、本来の道をなるべくとおっていきたい。
如何にギフトとはいえ、しんどいことはいやなのである・・・。
話が愛のほうにそれたが、感謝とは自分以外のものや人に寄せるありがたいというようなよろこびの気持ちのことではなく、いつも足りているという状態でいること安心であるようにおもう。
今日、瞑想で最近またよくでてくるガブリエルが、自分のいつもいる次元に連れて行ってくれてそこにいる自分のグループの天使長?セラフだとおもうが、その人にあわせてくれた。
なんか一生けんめいいってくれていたが、いつも言われていることだったので、理解しようとしなければだめなんだけど、「ああ、はいはい」という感じで深く考察しなかった。
このセラフの名前はセイキムというらしい。
これも日本語のこの感情を表す言葉が貧弱だから、または私のボキャブラリーが貧相すぎるからなのだろうが、そんなこといってもどうしようもないので、自分の感じているところを書く。
自分に起因だとか、神のおかげとかそんな風に思うのではなく、いい状態が自然である。それを実感することが、この場合の感謝なのだとおもう。(従来通りの感謝の意味ももちろんあるが)
そして私は今、この感謝という意識を感情としたが、これは果たして感情であっているのだろうか。
この場合にはやっぱりあてはまらない。愛というのと同じで非常に紛らわしいものであると思う。
神の愛とか高次元の愛とかいうのは、人間同士が抱く恋愛、情愛の感情とは違う。
どちらかといえば、違う言葉で表現してもらいたいものだ・・などと天邪鬼な私などは思っているくらい。
恋愛の感情は、ものすごく悪い言葉でいえば、気に入ったものに対しての執着であるようにおもう。
でないと浮気発覚時の修羅場などは生まれないだろう。
本来、愛は、あらゆるポジティブなエネルギーを指して、、光の魔法のようなエネルギーだとおもう。
具体的に言えば、思いやり、包容力、育成、支えというようなエネルギーをはらんだものであるように感じる。
もちろん、男女や親子の愛情にもこういったものは含まれていることもあるだろう。
そういうのは、次元の高い恋愛で、それと違い、つきあっている相手が信頼できずに、やることにいつも気をかけているようなのは(いわゆる束縛)、恋愛と勘違いしている人もいるだろうが、それは単に執着しているだけにすぎない。
恋愛は特定の人を大事に思い、ほかとは違うと自分の中に意識ができてしまうので、こういった闇に陥りやすいのだ。
感情と体は結びついている。
体の状態を知るために、感情がある。
特定の人を恋愛の情で、大事に思い、子孫をつくり、愛憎によるいろんな思いを経験し、なにかやらかしてしまったりというような闇を感じるのもふくめて、体をもってうまれてきた人間が経験できる、そして泣いたり笑ったりというのを楽しむことができるというギフトなのだろう。
ギフトといえど、人は自分の使命があるならそれにそった道をすすみたいと本質的に思っているとおもう。
人間は感情や欲情などだけではなく、魂という家でいえば神棚のようなものがある。
その神に通じている自分の中の神棚の感覚に従えば、いい悪いはわかるとおもう。
本来の道からはずれた単に遠回りをしでかしてしまっても、必ず元の道に戻してもらうのだが、できるなら遠回りせずに、本来の道をなるべくとおっていきたい。
如何にギフトとはいえ、しんどいことはいやなのである・・・。
話が愛のほうにそれたが、感謝とは自分以外のものや人に寄せるありがたいというようなよろこびの気持ちのことではなく、いつも足りているという状態でいること安心であるようにおもう。
今日、瞑想で最近またよくでてくるガブリエルが、自分のいつもいる次元に連れて行ってくれてそこにいる自分のグループの天使長?セラフだとおもうが、その人にあわせてくれた。
なんか一生けんめいいってくれていたが、いつも言われていることだったので、理解しようとしなければだめなんだけど、「ああ、はいはい」という感じで深く考察しなかった。
このセラフの名前はセイキムというらしい。
