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日野川 あさ

Author:日野川 あさ
奈良のエネルギーワーカーです。
主にネットでヒーリングやチャネリングの活動してます。

○伝授・ヒーリング等のサイト
”PRISMATICA”

○天然石とアクセサリーのショップ
プリズマティカのサイトに併合しました。

○アメブロの普段日記
”スジャータさんのメモ帳”

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ハトホル

無についてのお勉強がやっと終了した。
これからは、問題がでてきたら乗り越えるなんておもわず、問題じゃなくなるように、それが普通だとおもえるようにしていこう~♪などと思いつつの今朝の瞑想。

ここのところ。毎日山のてっぺんにすわって誰かと対話したり光をあびたりというかんじだったが、
今朝ははじまるやいなやでてきた存在がいた。

きれいな色の長い髪で、目はくりくりしていてひげが長い。
誰だろうと聞くと、ハトホルという。
ハトホルってなんか聞いたことがある。あれはエジプトの女神じゃなかったっけか。
でもどうみても男のひとっぽい。
どこの星からきいてみても、ハトホルだという。
ハトホルというところからいらしたハトホルさんだということがわかった。

いきなり詰めてきたのが「お金」についてのこと。
私もずっとずっとヒーリングを始める前からおもっていた地球にあるこの習慣、
お金にまとわりつくダークなお話もよくあるからどうしても悪い印象でみてしまう。
私もなあなあにしておいていたその「お金」についてが無の次の解決しなくてはならない事項なんでしょうか。。
(無がやっとわかったばかりだというのに)

大昔からあったお金。
お金でみんな食べたりものをかったりしている。エネルギーワークするひとも然り。
食べていくためにお金が必要と、儲けのためにやりかたを変化させていくと、その人のもつ印象や発する言葉ももちろん変化していく。
自分もそうならないとは限らないし、いろんなところに落とし穴はしこまれているのも確かである。
それを不安に思っている気持ちが自分にはある。

ハトホルがきく。あなたはなにがしたいのですか。なんのために瞑想をしていますか。レベルアップをなんのために目指しているのですかと聞いてきた。

私は愛と光がいっぱいになればいい。
魂の目的が無ならばそれを目指したい。
みんなで。

と答えると、やりたいことが、お金を収集するためにとならないようにしましょう。と返ってきた。
したいことをする。それについて帰ってきたものは受け取る。
それは対人やモノ、事にしても同じことだ。

ふとそこで全然違う疑問があがってきた。
あなたはなにものですか。女性ではないのですか。

ハトホルという人がいった。
調べればすぐに出てきます。おおむねわかります。

瞑想が終わったらすぐパソコンに飛びついて、調べてみたら、たくさんでてきた。
多くヒットしたのがハトホルのチャネルで有名な、トムケニオン氏。
彼が2011年あたりにいっていた光の薬の話は覚えている。


トムケニオン氏のサイト




わかったこと

長々と無について、瞑想を続けてきた理解のわるい私だったが、今朝の瞑想にて、やっといろいろ合点がいった。

ワンネスという言葉は、私にとってイメージにそわないようだ。
(と、言葉のせいにしているのがそもそもだが、、、)
一つになるというよりも、無にむかってレベルアップを続けていっているのだということがわかった。

みんなそれぞれ自分の課題があって、それを乗り越えるとその問題はなくなってしまう。
ひとつひとつ乗り越えていってクリアを増やしていくと無に近づいていく。
自分の問題だけでなく、周囲や地球の問題もそうで、片づけていくと問題自体はなくなり、調和が訪れるというわけである。
こうしてみると、乗り越えるという表現もちょっと違う。悩みにおもっていることを無にしていくというのが正しい。
無になるとそこには愛と光がひろがるだけという寸法である。

素晴らしいなあ。

理解がすすみ、腑に落ちると、光のシャワーが上から大量にそそがれた。
観音のすがたは最近みなくて、ひたすらブッダが光をあびせてくれていた。

イメージの備忘をする。
自分とブッダがダイレクトにつながっていて、ブッダから大量の光が私の体の表面の接触した部分から火花のようにでていた。
自分の中の宇宙と、根源の光がある宇宙とはつながっているというイメージなのだろう。
大きな太陽がでてくる。
太陽には意志はなく、ただひたすら愛の光を周囲に送り届けてくれている。
木の枝の固い鎧を被ったような冬芽が薄緑色の若葉に変化する様子は、愛には大きな力があることがわかりやすく見て取れる。

どのものにも平等に送られる愛。
その微細な高級なエネルギーをいつでもしっかり感じれるようになっていたい。

無について、理解がすすんだきっかけはダライラマの言葉。
彼は4月に日本に来るらしいが、講演を一般向けにするのかな。
関西にきてくれたら行きたいなあ。


無とは完全に満たされている状態

最近の瞑想は日記に書いていいものかどうかわからなくなってきている。
今日きいたことで備忘しておこうとおもったこと。

私「私の意識というのは確かにあるとおもいます。だからそれがスパークになった。そして根源の光から分離していったとおもうのです。すべて無だというなら自分と他と区別するという意識はどこからきているのですか。」

上「あなたも無だしほかも無なのです。」

私「発せられた言葉やそれにたいして湧き上がる思いというのはあります。そして自分が好き、これは苦手という意識もあります。」

上「その好きなものももともと無なのです。」

私「光も無ですか。神の意志も無ですか。」

上「他と区別するものがないので無になります。」


<無><空>とは、ダライ・ラマ法王の言葉
「完全に満たされている」という意味

20世紀最高のヒーラーといわれる神秘家ダスカロスの言葉
「ニルヴァーナ〔涅槃〕あるいはテオーシス〔神との合一〕は“無”ではなく、“全”なのです」


次にすすむ切符がほしい。。。。

無の光

久しぶりに瞑想日記を書く。

今まで無について観音に聞いていたけれど、はしばしでそうじゃないというエネルギーが余所からくる。
私の無についての解釈が間違っているようだ。

昨日はサナンダがいきなりでてきて、「無とはあなたを知ることです」といい、
今朝観音にきくと「無はあなた自身の奥深くにあるものです」という。

無とはなんだろう。
自分の内側をからっぽにすると入れ物である体もないということにしてしまわなければならない。
体は一時的なものだから内なる光の部分を外に向かって発して外側にとけこむようなイメージをする。

みんながその状態になればすべて光、ワンネスで、大きな一つの光
もともとあった神の光と同化ということ。
どうしてもぬぐえないものが自分と他というものだ。
これはもともとあった神の光がスパークとしてひとかけらの魂になったということによる副作用のようなものなのだろうと解釈した。

もう わからないひとだなあ!!
といって出てきた巨大な羽をもつ天使。長い髪大きな羽密度の高いエネルギーをしている。
だれかしらなかったけど、ついてこいというのでついていった。
どんどん上昇する。
上に上に。

どこか遠いところに行くときに使う長い管のようなところをぬけていく

もうこれ以上上昇できないというところで息をついたが、まだまだらしい。
スピードも落ちてきてそれでもまだゆっくり上昇していく。

もうこれ以上無理です。

どこだろう神の領域なのかな。そうおもって青緑にかがやくサードアイ意識してみる。

自分の魂が太陽のようにやさしい光をはなち、ゆらゆらと大きく輝いていた。
中で核融合がおこっているようにうごめいて見える。
あたたかい、春の日の光のような霞がかかったやわらかい光。
なつかしい、完全に安心できる光だった。

「魂ってなんですか?」
そう問われたとき、魂は神の光のかけらであり、今の自分の体のなかで魂は、家でたとえれば神棚のようなものだと、説明したことがある。

内なる魂は、神への通路、というか神そのものであることが明確にわかった。
合掌して胡坐をしている人の影が現れた。
私自身だ。
瞑想時合掌はしていないが、合掌になにか意味があるのかな・・・・。

今朝いろいろ見えたものについて、忘れないように備忘しているのだけれど、明確におちてきたのは、魂=神で両者にラグがあったりや次元がかわるものでないということ。
自分のうちにワンネスの光がある すべてを包み込む原初の光がある。
それは体や自我の意識をつつみこんでいるものということで無なのだ。

言葉にするのが難しいが、腑にかなり落ちてきて謎がとけてきて、かなりの部分がすっきりしてきたようにおもう。

ノンジャッジメント

ブログの更新が満足にできていない。
何度か更新しようとおもって書きかけていたときがあったのだけれど、なぜかエラーが出たり、ブラウザが落ちたりで記事保存にいたらなかった。
書かないほうがよい記事だったのかもしれない・・・と考えている。

先日ライタリアンクリアリングのアチューンメントの全てのレベルが終了した。
終わってみてつきつけられた私の思ってもみなかった課題が「ノンジャッジメント」

ほとんどのことについてジャッジをしているつもりがなかった。だが実際はそうじゃなかったときがついてとてもショックを受けた。
今の観音の無についても、ジャッジをしているようでは理解できないであろう。

記憶している自分のジャッジについて備忘してみよう。

先日海外に住んでいる日本人が書いているブログに、海外における日本のよくない評価がめんめんと書かれているのをみて、この人は日本に住んでいるのではないので、こんなことを書いているのだと思った.

ダイアナクーパーのティーチャートレーニングの講座中で、日本人は自分たちは特別だという感覚があるという話をダイアナが話していたというのを聞いて、少し反発を感じた。
地震や津波でひどいめにあっているのに、、、と思ったのである。

最近の政経ネタをあつかうブログでは、近隣諸国を切り捨て、日本の権利を主張すべしという内容のものがはやっているようだ。メディアの流れもその傾向にあるようにおもう。
それをみたとき確かにねと少し気持ちが高揚した。

つまり。
学校の教育では、第二次世界大戦で世界を騒がせた代償として、戦後すぐアメリカの統治下におかれ、今もなおその影響は少なからずは続いているようにおもわれるし、中国や韓国への償いを行うべきだというニュアンス的なものがあったように記憶している。
確かに戦後史を勉強していたとき、そうか~、日本は身勝手なことをしたんだなあ。というなんだか悪いことをしたような気持ちになった。
どこかの学校では韓国に修学旅行か研修旅行でいったときに、土下座をさせられていたとの話も見たことがある。

もういい加減アメリカのいうことはたくさんきいてきたし、中国や韓国にも代償はずいぶん払ってきたし、もういい加減いいじゃないかという考えがネット等で蔓延するのももっともだと思ったのである。


日本人として生まれたから日本の今や過去について大事におもうのは自然であるようにおもうが、日本をよくない風にいう人々について、あの人はわかってないというのは違っているようにおもう。
それが日本人であっても、外国人であっても、お互いの真とすることをしっかり交換していけば、必ず同じ地球に生まれた私たちだからわかるはず。
(逆に言えば海や勝手にさだめた国境とかいうラインだけで別れているだけでみんな同じと地球の土の上で生まれている)

今のウクライナの問題にしろ、確執があるもの同士が特に時間をとって真を交換しあえばもっともっと経済的、外交的に協力しあえるに違いないとおもう。

国は大きな単位であるけれど、もっと自分の身近な人におきかえてみれば、なにか自分によくないことをもたらした人をそのことだけで「あの人はああゆう人だ」と判定はしないほうがいいようにおもう。
だがこうやって「判定しないほうがいい」とおもったことについて、判定している人をみて、あの人はジャッジするひとだなんて判定をしてしまうこともあるだろうから、ノンジャッジメントが如何に難しい課題かわかってくる。

人をみとめ、
素直になり、
わからないことに関してわかっていけばいい。


今の時点ではノンジャッジメントについて、これがせいいっぱい笑