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日野川 あさ

Author:日野川 あさ
奈良のエネルギーワーカーです。
主にネットでヒーリングやチャネリングの活動してます。

○伝授・ヒーリング等のサイト
”PRISMATICA”

○天然石とアクセサリーのショップ
プリズマティカのサイトに併合しました。

○アメブロの普段日記
”スジャータさんのメモ帳”

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無というとらえようのないものを自分なりにとらえようとする瞑想が続いている。

老子やブッダなんかがいっている無からヒントを得ようとしてみたが、そうじゃないみたいで、少しずつだけど観音に教えてもらっている。

はっきりわかったことがあって、これは統合の続きのようだ。
魂のすすむところと自分の意識が融合したところでおわったと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃないというのが今朝わかった。
融合すると自分自身は愛や光になるんだけど、愛や光が最終的に目指すところではなく、それを超えたところに「無」があるらしいのだ。

その「無」を具体例を色々示してくれる。
ここで思い出されたのが、老子の「道」である。
彼が安民第三でいってるのは、国をおさめる立場のことなんだろうけど、それは個人にも置き換えることができるなあと自分なりの解釈している。
たとえば自分の欲に中心をおくと周りもその欲に触発されてくるという意味。
あのあの壷がほしい!すると周りの人もそんなにあの壷はいいものなのかと欲しい人がふえてきて、争いがおきる等。。

無私無為、自分という枠のなかを光でいっぱいにして、いっぱいになると自分という入れ物の境界線も光って見えなくなる。すると周りの光にとけこみ、光じゃないところも光にかえていく、、、というところまではわかる。

ただまだしっくりこないところはある。
宇宙のイメージは漆黒の闇である。
闇の中に光る存在はいて、究極の神の世界は光と愛しかないのもわかるが、そこじゃないところは闇である。
どうしてそこも光じゃないのだろうと思うのだ。
私がイメージする宇宙は闇である。

ただ見えるものは全て神の愛でできているとはおもう。
でも光が差し込んでいないところもある。

その闇の部分の疑問と、神の愛を超えたところ、愛をつつんでしまうという意味かもしれないが、そこにある「無」とはなんだろう。。。
私にはまだ観音がいいたいことがわからない・・・。

観音再び

瞑想のたびに気がつかないふりをしているのだけれど、観音はずっとそばにいてくれている。
やっぱりあの「無」について追求していきましょうということのようなので、今朝はそれについてどうの言う人もいなかったし、観音のいうようにしてみることにした。


つまり、みんなひとつ、ひとつの愛であり光なのだということがわかる。
魂は神から別れ、今旅をしている。
私にはなぜ神から分離したのかわからないが、もともと一つだった。


不安、恐怖は私たちに訪れる。
無というのは闇ではなく、光りだということ。
光がないとできない闇であるということ。
従って光は闇を包括することができると信じている。

感謝
感謝というのはどうゆう気持ちだろう。
自分に他から受けたなんらかのこと(全ては愛なのだけれど)によって、現状よりもいいことがあったり、気づいたりということを経験できた場合にわきおこる感情だとおもう。
この世の中愛あるものしかなければ、感謝という感情もおこらないのだろうなとおもう。

肉体があるからこそ、ある感情。
だがこの感謝の感情は、光あるもの、
愛あるものにふれたときに起こる心のよろこびであり、エネルギー体にはない感覚なのだろうなとか思う・・・。

観音について、
彼女、、彼のときもあるこの存在は、無ということを伝え、光や愛について、もとからなんの区別もないんだよということを教えてくれていたということがわかった。

全て最善しか起こらない
・・・というのは、私がどんなに光じゃない方向のことをしていたとしても、そのときにはそれが必要だったからそれが最善。
そして、光のある方向に導かれて行く。それが最善。
回り道しても道草くっても、立ち止まっていてもその時点時点での最善がそれなのだ。


イリヤ・レーピンの「サトコ」のような光景が出て来て、私の前を光るものたちの列がとおりすぎていった。




エネルギーチャージ

最近は、疲れ気味である。
具体的には仕事がおもうようにすすまないのが一番大きい。
精神的に疲れてしまって、気がつけばためいきをついてるなんてこともある。
こないだも、ため息をついてたら上の子が「ため息つくと、幸せが逃げるんだよ」と言ってくれた。
気をつけねば・・・。

朝の瞑想のとき、昨夜疲れているというのを家で話していたせいか、ミカエルがでてきた。
昨日セラピスベイがあけてくれた光の道を通って上にあがる。
ミカエルが先導してくれて飛んで行く。
どこいくの?と聞くと、マゼラン星雲といった。
遠くにそれがみえた。



写真:NASA's Archive


ピンクがかかっているのは、ガスなのかなあと考えながら時空のトンネルのような黒い管をぬけていくと、すぐそばまでやってこれた。
そこはピンク色の球体の周りにゆらゆらと光のラインがうごめいているものが浮かんでいる。
大きいが星ではない。そのまわりには無数のエネルギー体がおなじようにゆらゆらしている。
見るとみんな気持ち良さそうにしている。

ミカエルがいなくなったので、そのへんのゆらゆらしてるひとになにをやっているの?これはなに?と尋ねると、名前を忘れてしまったが、××だと教えてくれて、これはエネルギーチャージするものだ。という。
車がガソリンを補給するように物質的なエネルギーチャージができるところで、なにがすごいかというと人にもそれができるんだ!といった。こうゆうことができる場所はとても数が少ないらしい。言ってからまた気持ち良さそうに、ゆらゆらしだした。

疲れ気味だった私は、それに飛びついた。
その丸いピンクの球体にほかの人にならって、漂おうとした。コタツみたいでなんかいいな〜とおもったら・・・。
今朝は早めに起床した夫と娘がやってきてしまい、瞑想は終了せざるをえなくなってしまった。
残念。。。



なっている実をとる

なにか新しいことをやっていきたいと思っても、なにをどう動かしていいか思いついたときに考えている・・・という時間が最近ある。

せっかちなので、目に見えた形でぐんぐん(いい方向に)変化していくのを実感したいのだろうけど、そのためには古くからもっているこだわりみたいなものを柔らかくして形をかえていかないと難しいのだろう。

霊的な成長について種々学んで行くうちに、自分なりにこれはこうだと仮定をたてて(考えを選択して)すすめていく。それが次への試金石となっていくのだとおもうが、そのもの自体すらこだわりをなくしていく対象にすることも必要なのだと思う。

家をたてるときには、基礎となるものは必要だけど、その材質や形状は好みや環境によって選択できる。
そのあとにこしらえていく壁や屋根の材質は言わずもがなで、大事なのは「しっかりとした家にする」という目的である。

今朝の瞑想では、観音がまずまた自分を「無」にすることを(また)いい、そのあと観音のエネルギーを感じながらぼーっとしていた。
そこに最近仲良し(といっては失礼かもだけど)セラピス・ベイがきてくれてしばらく話しをしていたが、この土台の考えのこだわりに気がつくと、頭の上にはりつめていたどんよりとした霧に閃光の柱が立ち、私の頭上の霧が霧散し、上にラインができた。
その上は青くて綺麗な空が広大に広がっていて、気持ちがよかった私は調子にのってずんずんあがっていった。

「ここは光の空間です」という自分の声ににた声がして、光ばかりのところまできたときに、また別の声がした。


「あなたは、落ちてしまった実はひろわずに、上を見て、なっている実をもいで、食べてください。」


頭では理解できないこのメッセージ。
だけど、それを聞いてよろこぶ自分がわかる。
たぶん私にとってとても大事なメッセージなのだろうと雰囲気で理解した。