無というとらえようのないものを自分なりにとらえようとする瞑想が続いている。
老子やブッダなんかがいっている無からヒントを得ようとしてみたが、そうじゃないみたいで、少しずつだけど観音に教えてもらっている。
はっきりわかったことがあって、これは統合の続きのようだ。
魂のすすむところと自分の意識が融合したところでおわったと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃないというのが今朝わかった。
融合すると自分自身は愛や光になるんだけど、愛や光が最終的に目指すところではなく、それを超えたところに「無」があるらしいのだ。
その「無」を具体例を色々示してくれる。
ここで思い出されたのが、老子の「道」である。
彼が安民第三でいってるのは、国をおさめる立場のことなんだろうけど、それは個人にも置き換えることができるなあと自分なりの解釈している。
たとえば自分の欲に中心をおくと周りもその欲に触発されてくるという意味。
あのあの壷がほしい!すると周りの人もそんなにあの壷はいいものなのかと欲しい人がふえてきて、争いがおきる等。。
無私無為、自分という枠のなかを光でいっぱいにして、いっぱいになると自分という入れ物の境界線も光って見えなくなる。すると周りの光にとけこみ、光じゃないところも光にかえていく、、、というところまではわかる。
ただまだしっくりこないところはある。
宇宙のイメージは漆黒の闇である。
闇の中に光る存在はいて、究極の神の世界は光と愛しかないのもわかるが、そこじゃないところは闇である。
どうしてそこも光じゃないのだろうと思うのだ。
私がイメージする宇宙は闇である。
ただ見えるものは全て神の愛でできているとはおもう。
でも光が差し込んでいないところもある。
その闇の部分の疑問と、神の愛を超えたところ、愛をつつんでしまうという意味かもしれないが、そこにある「無」とはなんだろう。。。
私にはまだ観音がいいたいことがわからない・・・。
老子やブッダなんかがいっている無からヒントを得ようとしてみたが、そうじゃないみたいで、少しずつだけど観音に教えてもらっている。
はっきりわかったことがあって、これは統合の続きのようだ。
魂のすすむところと自分の意識が融合したところでおわったと思っていたのだけれど、どうやらそうじゃないというのが今朝わかった。
融合すると自分自身は愛や光になるんだけど、愛や光が最終的に目指すところではなく、それを超えたところに「無」があるらしいのだ。
その「無」を具体例を色々示してくれる。
ここで思い出されたのが、老子の「道」である。
彼が安民第三でいってるのは、国をおさめる立場のことなんだろうけど、それは個人にも置き換えることができるなあと自分なりの解釈している。
たとえば自分の欲に中心をおくと周りもその欲に触発されてくるという意味。
あのあの壷がほしい!すると周りの人もそんなにあの壷はいいものなのかと欲しい人がふえてきて、争いがおきる等。。
無私無為、自分という枠のなかを光でいっぱいにして、いっぱいになると自分という入れ物の境界線も光って見えなくなる。すると周りの光にとけこみ、光じゃないところも光にかえていく、、、というところまではわかる。
ただまだしっくりこないところはある。
宇宙のイメージは漆黒の闇である。
闇の中に光る存在はいて、究極の神の世界は光と愛しかないのもわかるが、そこじゃないところは闇である。
どうしてそこも光じゃないのだろうと思うのだ。
私がイメージする宇宙は闇である。
ただ見えるものは全て神の愛でできているとはおもう。
でも光が差し込んでいないところもある。
その闇の部分の疑問と、神の愛を超えたところ、愛をつつんでしまうという意味かもしれないが、そこにある「無」とはなんだろう。。。
私にはまだ観音がいいたいことがわからない・・・。
