自分の本当の望んでいるところ(魂の意図するところ)を見るということはなかなか難しい。
現在の自分の意識がどうしてもはいってしまう。
今日は観音が、どこかわからないが、水平線がうつくしく見える場所に連れてゆき、その後彼女の言われる場がままにある場所で空間に浮かんだ。
その場では、まわりに人が無数にいて、周囲にいろんな形に上に下に左右に無限にいて、密度も濃くて・・・というかんじ。
よくみると、その人たちは自分自身と気がつく。
それは大きな大きな私という空間だった。
霊的に成長していくというのは、自分を大きくすることなのか とも思える。
自分のまわりにちらばっている、一見「自分ではない」と思うものを統合させていくことで、次元をまたいで大きくなるということなのだろうか。
つい考えてしまう。感じることが大事なのだけれど。
昨日は、アフロディテに上から滝のようにエネルギーをそそいでもらった。
ひたすら彼女は「愛をかんじましょう」といっていた。
私がなにを質問しても、上から流されるそのものと「愛をかんじましょう」だけだった。
観音は大きくなり(近づいて来て)、ただ感じましょうという。
私はその空間のなかで、ただ感じることに専念した。
曖昧じゃないしっかりとした安心できるエネルギーで、「ほどよい」と感じられる温度。
そして、水琴窟のような美しい音色がどことはなしに聞こえて来てしばらく意識をかんじなかった。
現在の自分の意識がどうしてもはいってしまう。
今日は観音が、どこかわからないが、水平線がうつくしく見える場所に連れてゆき、その後彼女の言われる場がままにある場所で空間に浮かんだ。
その場では、まわりに人が無数にいて、周囲にいろんな形に上に下に左右に無限にいて、密度も濃くて・・・というかんじ。
よくみると、その人たちは自分自身と気がつく。
それは大きな大きな私という空間だった。
霊的に成長していくというのは、自分を大きくすることなのか とも思える。
自分のまわりにちらばっている、一見「自分ではない」と思うものを統合させていくことで、次元をまたいで大きくなるということなのだろうか。
つい考えてしまう。感じることが大事なのだけれど。
昨日は、アフロディテに上から滝のようにエネルギーをそそいでもらった。
ひたすら彼女は「愛をかんじましょう」といっていた。
私がなにを質問しても、上から流されるそのものと「愛をかんじましょう」だけだった。
観音は大きくなり(近づいて来て)、ただ感じましょうという。
私はその空間のなかで、ただ感じることに専念した。
曖昧じゃないしっかりとした安心できるエネルギーで、「ほどよい」と感じられる温度。
そして、水琴窟のような美しい音色がどことはなしに聞こえて来てしばらく意識をかんじなかった。
