ご相談事に乗らせてもらっていると、私のうけさせてもらった範囲での話しなのだが、御悩みの件について、共通の突破口がある。と感じる。
お悩みの内容はもちろん全て違うのだけれど、キーになるのは「自分が変わる」のようにおもう。
人は様々な理由をつくって、「変わる」ことを躊躇う。
それが長い間かかって築き上げて来たものならなおさらである。
ほとんどの人は、悩んでいるときに「なにかがまずいのだろうか」と感じているはずである。
そのために、他人に助言を乞うたり、友達に話してみたりするのだが、
他人や友人は、自分の為に「良い」とおもっていることを客観的な視線で助言してくれる。
それは玉石混淆で、その人が受け入れやすいようなガイドつきの親切な質のいい助言であったりする場合もあるけれど、中には不変の真理にそぐわない、その人のたまたまうまくいった経験などを元にしたアドバイスされることがある。
本当にそれがいいのかなと自分の判断をとおさずに、また疑問に感じながらも、正しいものとして積み重ねて行くと、人生半ばでつじつまが合わないことがでてきて、やっていることと自分の思いの食い違いが増えてくる。
やがて、他に責任の所在をもとめたり、依存するようになってくる。
自分の基本の土台部分が、ぐらついていつまでも「自分以外のもの」に、よりかかっていなければちゃんと立つことができない状態である。
よりかかっているものに「ちゃんとしっかりしてよ!」と見当違いな攻撃をしたり、人が周りから消えてしまうことを極度に恐れるため、自分は嫌だとおもっていることを人にあわせるためにしてしまう。
そして、自分の周りから人が消えてゆき、これだけ私は、人にあわせてきたのに、人がいいとおもうこと、言うことをやってきたのに、なんで??ということになり、さらに自分以外のところに問題を見つけようとする悪循環が展開される。
人の意見をきかないのがいいといっているのではない。
その中でもしっかりしたものを人や本から、自分で「良い」と感じ判断して取り入れると、最初は人の考えであったとしても、「良い」という判断をした後は、自分の考えとなる。
また、人から聞かなくても、自分で悩み、考え、苦しんだ後に見えてくる真理もある。
一人で立ち、すすむべき方向に進むのは私たちみんな一緒。
そのためにかたくなに守っている自分の砦は、本当にいるべき場所なのかなと、守っているものは本当に大事な物なのかなと、再度みまわしてみることが大事なような気がする。
お悩みの内容はもちろん全て違うのだけれど、キーになるのは「自分が変わる」のようにおもう。
人は様々な理由をつくって、「変わる」ことを躊躇う。
それが長い間かかって築き上げて来たものならなおさらである。
ほとんどの人は、悩んでいるときに「なにかがまずいのだろうか」と感じているはずである。
そのために、他人に助言を乞うたり、友達に話してみたりするのだが、
他人や友人は、自分の為に「良い」とおもっていることを客観的な視線で助言してくれる。
それは玉石混淆で、その人が受け入れやすいようなガイドつきの親切な質のいい助言であったりする場合もあるけれど、中には不変の真理にそぐわない、その人のたまたまうまくいった経験などを元にしたアドバイスされることがある。
本当にそれがいいのかなと自分の判断をとおさずに、また疑問に感じながらも、正しいものとして積み重ねて行くと、人生半ばでつじつまが合わないことがでてきて、やっていることと自分の思いの食い違いが増えてくる。
やがて、他に責任の所在をもとめたり、依存するようになってくる。
自分の基本の土台部分が、ぐらついていつまでも「自分以外のもの」に、よりかかっていなければちゃんと立つことができない状態である。
よりかかっているものに「ちゃんとしっかりしてよ!」と見当違いな攻撃をしたり、人が周りから消えてしまうことを極度に恐れるため、自分は嫌だとおもっていることを人にあわせるためにしてしまう。
そして、自分の周りから人が消えてゆき、これだけ私は、人にあわせてきたのに、人がいいとおもうこと、言うことをやってきたのに、なんで??ということになり、さらに自分以外のところに問題を見つけようとする悪循環が展開される。
人の意見をきかないのがいいといっているのではない。
その中でもしっかりしたものを人や本から、自分で「良い」と感じ判断して取り入れると、最初は人の考えであったとしても、「良い」という判断をした後は、自分の考えとなる。
また、人から聞かなくても、自分で悩み、考え、苦しんだ後に見えてくる真理もある。
一人で立ち、すすむべき方向に進むのは私たちみんな一緒。
そのためにかたくなに守っている自分の砦は、本当にいるべき場所なのかなと、守っているものは本当に大事な物なのかなと、再度みまわしてみることが大事なような気がする。
